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浜松町のはじまり

NCM_0009-浜松町古地図

浜松町(はままつちょう)という名前はどこから来たのでしょうか。
港区のホームページにこう書かれています。

慶長8年(1603)頃は、増上寺の代官“奥佐久方衛門”が名主を兼ねていたため、「久右衛門町」と呼ばれていました。この頃から海岸が埋め立てられ、おもに増上寺の関係者が移り住むようになり、次第に町を形成していきました。
 
元禄9年(1696)に遠州(静岡西部)・浜松出身の「権兵衛」なる人物が名主となってから、浜松町と名のるようになりました。
 
明治期に入り、新見藩関家上屋敷、小田原藩大久保家上屋敷などを併合し、明治11年(1878)、芝区に編入しました。
昭和7年(1932)に神明町、芝新網町、湊町、新銭座町、宇田川町の一部を併合。昭和22年(1947)、港区に所属して芝浜松町となり、昭和47年(1972)に「芝」の冠称が削除され、名実ともにほぼ現在の町となりました。

なるほど、静岡県の浜松市ともつながりがあったんですね!
街中にこんな石碑もあります。

町名の由来

濱松町-町名の由来
 武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正十八年(1590)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶長三年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長六年(1603)東海道を現国道15号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼任であった、名主奥住久右衛門の支配下で「久右衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事より、これ以後「濱松町」に改名され、明治、大正、昭和、平成と受継がれ現在に続いている。江戸では歴史のある数少ない「古町」のひとつである。
 尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶応義塾跡、新銭座跡、東京市電車庫第一号跡等)が点在している。

(文責)加藤辰太郎

ここが浜松町になった時の江戸幕府将軍は、第5代将軍・徳川綱吉。「生類憐れみの令」の人ですね。
当時はまだ東京湾の埋め立て地も少なく、もっと海が近かったのでしょう。
浜松町から見える海は、当時はどんな光景だったのでしょうか。
竹芝からお台場方面

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